私の専門は、デザインマネジメントである。聞きなれない言葉かもしれないが、かいつまんで言えば、デザインの力を使って、企業のビジネスはもとより、まちづくりから、ひいては国づくりについて考えていこうというものだ。
そんなことを三十年ばかりやって来たのだが、ここ十数年は、そのデザインの価値をもう一段掘り下げ、情報の価値についての研究をすすめている。デザインと情報―いったいどんな関係があるの?と思われるかもしれないが、実は関係が大ありなのだ。
例えば、今もしあなたが、ブランドもののバックを下げて歩いているとしたら、それは、単なるモノではない。そこに付けられたGやLVのマークは、情報である。そうしたブランドマークの意味するところの高級感、信頼感、デザイン性などにひかれて、あなたはそのバックを買ったはずだ。何かを入れて持ち歩くための機能を満たすだけのものなら、そうしたブランドマークは、とりたてて必要なわけではない。つまり、あなたがそのバックに、他のバックよりも多少なりとも高額なお金を支払ったとしたら、それは、モノに対してではなく、情報にお金を支払ったことになる。逆にいえば、そのバックの価値の何割かは、情報によって構成されていると言ってよい。
こうした事例は、ブランドものの高級バックにかぎらない。私たちの身のまわりを見渡せば、ほとんどの商品の、そして、その少なからずの価値部分が、こうした情報の価値から成り立っていることがわかる。
あなたが着ている洋服も、座っているイスや目の前のテーブルも、時計もメガネもペンもすべて、破れない丈夫な素材で出来ているからとか、座りやすいからとか、正確に時を刻むからとか、文字を書きやすいからといった、実用機能的な、モノとしての意味合いからだけで、購入されたのではないことに気づくはずだ。
もちろん、そうしたモノに付加された情報だけでなく、はっきりと情報商品とわかるものも、私たちの身のまわりにあふれている。例えば、テレビ番組、映画、新聞、雑誌・出版、音楽、演劇、キャラクター、ゲーム、最近では、膨大な量のネット上の画像・映像情報など、それらをあげてゆけばきりがない。
つまり私にとって、ブランドもののデザインバッグも、今日的なネット情報もすべて、情報という同種類の価値によってビジネスが営まれ、また、そうして生み出された情報の価値を、人々が喜んで購入している、ということになるのだ。
もしそうだとすれば、情報の価値には、これまでモノが持っていた実用機能的な価値とは違う性質や特徴があるはずで、それを見極めることが、これからのビジネスの成功や町づくりなどに際してのポイントとなるはずだと考えて、研究を進めてきたのである。
ただし、こうした情報の価値ビジネスの大きな課題は、その価値について具体的に数字で表すことが難しいことだ。美しさやカッコよさの数値化は困難を極める。もちろん、デザイン工学的な手法でそれらの指数化ができないわけではない。ただしそれらは、一度、人間の感覚器を通してからの数値化である。液体の量や、ものの丈を測るように、対象自体に計測器をあてて測っているわけではない
。
むろん、花の美しさや、優れた音楽や絵画の放つ感動そのものに、ものさしをあてることはできない。どうしてもそれらは、私たちの感性のフィルターを通したものであり、人それぞれの感じ方による相対的な価値となってしまう。
そんな中、私にとって、かねてより気にかかっていたひとつの謎めいた言葉があった。それは、先年亡くなった、文化人類学をはじめとして、情報学の世界でも多大な足跡を残した梅棹忠夫(1920〜2010年)の次のような言葉だ。
「商品あるいは工業製品の価格はつねに実数であらわされる。しかし、情報産業における情報の価格は、つねに虚数的部分をふくまざるをえない。―情報の価値はつねに複素数的構造をもつということができるであろう」(梅棹忠夫「情報の文明学」1988年79頁)、という一文だった。
情報の価値は複素数構造を持つー梅棹自身がどこまで確証をもって発した言葉かわからないし、その文書の周辺を探しても、はっきりとその理由が述べられているわけではない。ただ、碩学にして鋭い直感力を持った梅棹が、軽々しく断言に近いかたちで、こうした文章を残すわけもない。だが、二乗すればマイナス1になるという虚数の世界と、情報がどうからむかなど、かいもく見当のつかないまま、その謎めいた言葉は、長いあいだ私の頭の片隅にしまわれたままだった。
そんなある日、買い置いたままになっていた物理系の本を何げなくめくっているうちに、情報という言葉が書かれている箇所に目がとまった。本は、理論物理学者である佐藤文隆氏の「量子力学は世界を記述できるか」(2011年青土社)である。
そこにはこう書かれていた。
「モノは時空上の存在だが、情報はそうではない。このため『エントロピーが時空的存在でない』ように、『Ψは時空的存在か?』という論点が登場する。筆者は、量子力学は『hのモノ』と『Ψの情報』の異質の二部構成ではないかと主張している」(同著30頁)。
根っからの文系を自認する私は、量子の世界などとはまったく無縁だった。ただ、量子が私たちの棲む世界の根本原理を作り上げている存在であることくらいは、耳学問で知っていた。しかも、その根本をなす世界が、モノと情報の二階建てで出来ているという下りは、いたく私の注意を引いた。さっそく佐藤氏がここで引き合いに出しておられるシュレーディンガー方程式というものを調べてみて、あっと驚いた。式自体が何を言っているかはわからなかったが、その式の中に、きっちりと虚数iが書き込まれているではないか
。
瞬間、梅棹の「情報の価値は複素数構造を持つ」という言葉が、頭をよぎった。そして、その梅棹の謎の言葉が、それまでのぼんやりとした存在から、にわかに現実味を帯びてきたとまでは言わないものの、暗い闇の中に、一筋の光が射してきた思いがした。
とりあえず私は、シュレーディンガー方程式はもとより、量子の世界そのものを学ぶことから始めることにした。入門書をはじめとして、いくつかの量子力学に関する書籍を紐解くことにした。ちなみに、シュレーディンガー方程式とは、量子という最小単位の粒子の、位置とその運動について関係づけたものだ。
量子は、粒子という呼び方のとおり、粒でもあるが、波の性質も同時に合わせ持つという不思議な存在である。しかも、その方程式に組み込まれた虚数iは、波動の性質を数学的に処理するための便宜的なものではなく、量子力学の本質的な性質であることもわかってきた。ノーベル賞受賞者である物理学者レーダーマンは、「どうやら、自然が読んでいる本は複素数で書かれているようだ」とも語っている(「詩人のための量子力学」2014年 白揚社)。いよいよ梅棹の予言は、自然科学の世界でも信ぴょう性を帯びてきた。
レーダーマンも語るように、量子の領域では、それを数学的に精密に記述するには、虚数iの存在が欠かせない。では、その虚数を含む複素数であらわされる量子世界が、果たして、私の考える「情報」の世界と何らかの関係があるかどうかだ。
この点については、物理領域の門外漢であり、まして量子力学の専門家でもない私が、その解明のために精緻な議論を展開することなどとうていできない。また、佐藤文隆氏が「Ψは情報ではないか」と言う場合の「情報」と、私が考える情報とは、ニュアンスが違うことは後にはっきりとしてきた。そのため、本書の中では、量子力学の基本的な考えと、私の考える情報の価値の特徴が交錯するいくつかの点について言及するにとどめることとした。
一方、梅棹が指摘したように、私たちがふだんに生活するマクロ世界における情報の価値と複素数の関係だが、この点については、私がこれまで研究してきた情報価値の特徴を、複素数という数学的ツールを用いることで、それらがうまく説明できる点についてできるだけ詳しく語ることにした。
今日、誰もが認める情報社会が、実は複素数で表されるのではないかという梅棹の仮説は、文字どおり数学的な論拠に基づくものではない。ただ、量子力学の世界と、われわれマクロ世界の価値全体について語っていく場合、実数に虚数を加えた複素数的な考え方をとりこまなければ、どうにも説明がつかないことだけは、本書を書き進めているうちに、次第に確かなように思われてきた。
筆者は、デザインの価値という、いわばとらえどころのない経済価値の研究から出発した。実数だけだと思って眺めていた世界に、隠れた虚数の世界がある。もしも二つある説明原理の一方の虚数部分を取り落としていたとしたら、一体どうなることだろう。夢物語かもしれないが、例えば、どんな複雑な経済学の数式の中にも、今現在、虚数は登場しない。ただ、経済価値の重要な柱として、情報の価値があることがはっきりとしていて、もしそれが、量子力学の説明原理のように虚数を含むかたちでしかあらわせないとしたら、これまでの近代経済学は、ニュートン力学のそれと同じ道を歩む可能性さえ出てくる。それはちょうど、自然科学の世界において、量子力学の原理が取り入れられることがなかったら、今日のデジタル社会が一歩も進まなかったのと同じと言ってよいだろう。
これはいわば知の冒険である。しかし、この謎を解き明かさずして、私たちの未来への道が開けないことだけは確信している。
平成28年1月 著者 佐藤典司