本書は、中東諸国とのビジネスに携わっておられるか、或いはこれから取引を始めようとされている日本の企業の方々を主たる対象として、中東諸国
での事業活動の際に知っておいた方が良いと思われる法律に関連する事情を概括的に説明すると共に、その一環として、民事取引の基本法であり、他の法律や制度を理解する上でも重要な民法を、アラブ首長国連邦(以下では、一般に呼び慣れている「UAE」という略称で呼ぶことにする)の民法の全文和訳とその解説という形でご紹介することを目的とするものである。
中東諸国の住民の大多数はアラブ人であり、ムスリム(イスラーム教徒)であるが、非アラブ人や非ムスリムがこれらの国で事業を行う場合には、他の地域では遭遇しない種類の困難にぶつかることがある。その中の一つに中東諸国の法律の問題がある。
何処の地域や国であっても商取引はすべて法律に従ってなされなければならないから、商取引の過程で法律の問題が生じるのはアラブやイスラームの国に限るわけではないが、これらの国の場合には、一般の非ムスリムには馴染みの薄いイスラーム法(最近ではアラビア語の「シャリーア」という用語で呼ばれることが多いので、本書でもシャリーアと呼ぶことにする)を巡る問題のあることがその一つの理由であろう。またこの地域では、取引関係をめぐって一旦紛争が起こると、それを現地で解決するには時間と労力がかかるだけでなくその予測すら難しいといった、他の地域では余り気にしなくても良い、その意味でこの地域特有の問題がありそうだという懸念を示す関係者も多い。これも法律問題の範疇に入ると考えられよう。しかし残念ながら日本では、こういった種類の中東諸国における法律問題に直接参考となる資料が少なかったように思われる。
そこで本書では、先ず第1部において、この地域の法律事情を理解する上で必要なシャリーアの基礎的説明を行ない、その中で、少なくとも商取引に関連する分野では制定法が先ず適用されるから、シャリーアについてそれ程気を煩わす必要はないことを述べた上で、そのことをご理解頂くために、日系企業の進出数が多いだけではなく、夫々に独自の性格の強く出た法制度を作ってきている、UAE、エジプト、サウジアラビア、イラン、トルコの5ヶ国の法律事情と、最近話題になることが多いイスラーム金融とを全般的に説明することによって、日本の企業がシャリーアに対して向き合う場合の基本的姿勢を考えてみた。
また続く第2部と第3部においては、アラブ諸国の民法の中で最も新しく制定されたものの一つであり、またシャリーア的要素を比較的多く含んでいると思われるUAEの民法の全文和訳をお示しするとともに、その概括的解説を行なって、シャリーアが非ムスリムである日本人にも理解出来ないものではないことをご理解頂こうとした次第である。
このように、本書は法的な分析ないしアドバイスを目的としたものではなく、むしろ読み物として日本の企業の方々を対象にシャリーアや現地法律事情、またUAE民法の内容を紹介することに主眼をおいたため、平易な文体
で記述している。一方で、その内容は筆者らが弁護士としての立場で関わることにより得た経験等に、日本の弁護士としての比較法的な視点からの分析を踏まえたものであり、読者のニーズに十分応えることができるものとなっていると自負している。中東諸国の法律事情に明るい日本の弁護士は極めて限られており、上記のとおり本書のような資料は少ないが、筆者らが本書を完成させることができたのは、西村あさひ法律事務所における中東プラクティス及びそのノウハウに負うところが大きい。
西村あさひ法律事務所は、専門的知識と分野を跨ぐ総合力を活かし、ビジネス法務分野で数多くのアドバイスを提供してきたわが国最大の総合法律事務所である。西村あさひ法律事務所では、国際的な取引の拡大を踏まえ、その中でも従来欧米に偏りがちであったクロスボーダー取引の軸足を中東を含むアジア全域に拡げるべく、中東諸国の法律知識の蓄積にも努めてきたところである。特に第2部と第3部のUAE民法の全文訳と解説は、西村あさひ法律事務所中東プラクティスチームの松下由英及び山本輝幸両弁護士の全面的な協力を得た。このプロジェクトは、まずは正文であるアラビア語からの和訳を英文訳と参照して条文文言の正確な把握を目指し、加えて日本民法と比較しながら制度相互の関係と条文趣旨の正確な理解を試みたものである。
全1528条からなる大部の法典を前にして、長時間に渡る議論を経なければ本書の完成は不可能であった。更に、本書には、西村あさひ法律事務所中東プラクティスチームの斎藤創弁護士によるイスラーム金融についての紹介を収録した。日本におけるイスラム金融の専門家の一人である同弁護士の豊富な経験等を踏まえ、中東諸国の文脈で取り上げられることの多いイスラーム金融の典型スキームを分かり易く概説し、その分析に加えて日本法との関わりについても言及したものである。
本書の完成は、近年の中東諸国とのクロスボーダー取引の拡大により、中東に関する知識・経験を蓄積した日本人弁護士が着実に増えてきたことの証左ともいえよう。
なお、第3部のUAE民法の全文訳については、必要に応じて冒頭の総目次から関係のありそうな条文を見つけてその個所に目を通すという、refer-enceないしは法律辞典的な使い方をして頂ければお役に立つと思うが、出
来れば第2部の解説部分と第3部の導入編第2章に規定されている「法律の解釈に関する法学上の格言及び規則」(この章に含まれている条文は数も多くないし、長文でも無いので、簡単に読めると思う)等の個所を(第1部のシャリーアについての解説個所と合わせて)読んでみて頂ければ、シャリーアとはどういうものかとか、シャリーアと制定法たる民法とはどういう関係にあるかといった点のご理解に役立つのではないかと考えている。
本書は主としてUAEをはじめとする各国政府の各種公刊物(インターネット上の公刊物を含む)を中心に、筆者らが集めた資料、および、これまでに筆者らが依頼者から受けた相談やそれに関連して現地の弁護士を含む関係者と行なった協議等に基づいて作成したものである。内容的には出来る限り正確を期したが、何分にも法律の改廃や関係機関の取扱いの変更等がある分野である上に、筆者らの解釈や観測に基づく部分も含まれているので、その完全性や有用性につき筆者らは保証するものではない。具体的問題につき対処される際は、本書のみに依らず、現地関係機関や現地弁護士等に相談されたい。
また本書の記載事項の中には、日本商事仲裁協会発行のJCAジャーナル誌および中東協力センター発行の中東協力センターニュース誌に田中が寄稿した連載記事(「UAE民法について」および「中東諸国の法律・司法制度−歴史的パースペクティブから−」)、並びに、西村あさひ法律事務所発行の「中東諸国ビジネス法ガイド」をまとめた部分があることを、お断りしておく。
本書が、中東諸国における法的諸問題に関する一定のガイドブックの役割を果たし、日本企業の方々のリスク分析に資することで、中東諸国への進出及び更なる事業拡大にいささかでも寄与できれば幸いである。
2013年4月
西村高等法務研究所客員上席研究員
インテグラル法律事務所弁護士 田中民之
西村あさひ法律事務所
中東プラクティスチーム代表弁護士 小野傑、川上嘉彦