発明に「新規性」と「進歩性」とがなければ、発明に特許権は成立しません。
発明に特許権が成立するために必要とされるこの2つの条件のうちの「新規性」とは、『特許庁から特許を受けようとする発明がその特許出願前に公然と知られた発明等(以下「先行公知技術」といいます。)と同じではないこと』をいいます。したがって、特許を受けようとする発明に「新規性」があるかどうかは、それと先行公知技術とが同一であるかどうかによって判断されますから、その判断に判断する人物の主観や価値観が入り込む余地はありませんし、その判断も容易です。
ところが、発明に特許権が成立するために必要とされるもう1つの条件である「進歩性」については、その判断は容易ではありません。なぜならば、特許法は「進歩性」を『特許を受けようとする発明が先行公知技術に基づいて容易に発明することができないこと』と規定しているからであり、「進歩性」があるかどうかを区分する「容易」とは、幅のある概念であって、しかも、その幅を数値によって表すことができないからです。
そのため、同じ発明について、ある人Aは進歩性があると判断しても、他の人Bは進歩性がないと判断する事態がおこることが避けられません。
しかし、発明に特許権が成立するかどうかを予測したりそれを判断することが困難であることは、極めて深刻な問題を引き起こします。
第1に、これから開発しようとする発明に特許権が成立するかどうかを予測することができなければ、その発明の開発に投じる技術開発費を特許権の成立によって得られる独占的超過利益の中から回収できるかどうかを予測することができませんから、技術開発にゴー・サインをだしてよいのかどうかの決断ができません。蓋を開けたところ、予測に反して特許権が成立しなかったというのであれば、技術開発費は経営資源の浪費として結果します。
第2に、他社の開発した発明に特許権が成立するかどうかを予測できなければ、また、その発明が受けた特許が無効となるかどうかを判断することができなければ、自社がその発明と同じ発明を事業化してよいかどうかの決断もできませんし、その発明に特許権は成立しないであろうとの予測が覆ったときは、その予測に基づいて行った事業は全くの無駄になってしまいます。
「進歩性」の判断基準を明確にするためにとりまとめられたものに、特許庁がガイドラインとして公表している「特許・実用新案審査基準」「第II部 特許要件」(2006年6月)があります。
しかし、「特許・実用新案審査基準」は「進歩性」が否定することができる事由を結論的に列挙する形式をとっているため、例えば、判例上進歩性が肯定される事由であることが認められている「阻害要因」のように、「特許・実用新案審査基準」に列挙されていない場合についての進歩性判断はどうなるかを読み取ることはできません。また、例えば、進歩性が否定される事由であるとしている「設計事項」のように、その定義がされていないものがあるため、進歩性の判断基準が不明確なままになっているものがあります。これ以上に問題であるのは、進歩性が否定される事由とされている「技術分野の関連性」に代表されますが、「特許・実用新案審査基準」の内容にそれが平成18年に公表されてから今日に至るまでの数多くの判決−特に知的財産高等裁判所の判決−の積み重ねによって形成されてきた進歩性の判断基準についての判例法と乖離が生まれつつあり、「特許・実用新案審査基準」では、進歩性判断に十分に対処しきれなくなりつつある点です。
「特許・実用新案審査基準」に基づく特許庁の進歩性判断の運用と判例法との乖離の兆候は、それの公表直後の判決である知財高判平成18年6月29日・平成17年(行ケ)第10490号審決取消請求事件(「紙葉類識別装置の光学検出部」事件)にみられます。そして、それを決定づけたのが知財高判平成21年1月28日・平成20年(行ケ)第10096号審決取消請求事件(回路用接続部材事件)です。その乖離は、広範囲に及んでいます(例えば、周知技術を理由として進歩性を否定する場合の特許庁の運用のありかたを批判した知財高判平成24年1月31
日・平成23年(行ケ)第10121号審決取消請求事件(「樹脂封止型半導体装置の製造方法」事件))。進歩性の判断についての近年におけるこれらの判決をはじめとする各判決の前提にある考え方は、進歩性判断は検証可能なものでなければならず、「容易に想到することができる」ことを認定できる客観的証拠がなければ、進歩性を否定することはできない、という考え方です。
上記のとおりの考え方は、しごく当然な考え方です。
しかし、問題は、客観的証拠によって認定されるべき「容易に想到することができる」事実の内実は何か、そして、「容易に想到することができるかどうかを検証可能にする」とは具体的にはどのようなことであるのかです。それが明らかにされなければ、「容易」という概念が不明確であるために「進歩性」の判断や予測が困難である事態から抜け出すことはできないからです。
本書は、以上のとおりの問題意識に基づいて、「容易想到性」についての統一的な判断基準の考え方を論述するとともに、他方において、このことを踏まえて、裁判例の中から、とりわけ、「紙葉類識別装置の光学検出部」事件判決以降の進歩性判断のありかたを判示した近年の判決から「容易想到性が肯定される事由」や「容易想到性が否定される事由」を抽出し、進歩性の判断基準を体系化したものです。
本書が審判手続や特許訴訟に関与する弁理士や弁護士等の実務家の手引きとしてだけでなく、技術開発、技術開発管理、知的財産管理等の各業務に従事する人々にとっての手引きとなり、効率的な技術開発に寄与することができるならば、著書として幸甚の至りです。